過去に2回、私は「うつ病」を経験しました。そのうち1回は自殺未遂をする程ひどい状態になり、危うく自らの命を絶つところでした。
しかし、そんな私も家族や親しき友人達の励ましによって今を生きることが出来ています。
今回は、つらい「うつ病」になった経験を、私の記憶にある限り書いていこうと思います。
希望をもって、決心したが・・
私は「柔道整復師」という、医療系の国家資格を持っています。
この国家資格は、街中でよくみかける接骨院・整骨院をいう看板を立ち上げる資格。
体に不調のある患者さんを治療する仕事で、昔でいう「ほねつぎ」です。
話は、私が29歳とき。当時、5年勤めていた接骨院の院長先生からこう言われました。
「Mさんが整骨院を開きたいみたいだから、院長としてやらないか?」
私は、そのときMさんから提示された雇用条件が当時としてはとても魅力でした。
あまりに急なお話だったので少し迷いましたが、
「よし、やってみよう!」と、心のなかで決心しました。
しかし、そんな決心もすぐに消えるとは、そのとき夢にも思いませんでした・・・。
Mさんという人
Mさんは、いわゆる「土建屋」の社長。私が勤務していた接骨院の隣に事務所を構えていました。
見かけで人を判断するのは失礼ですが、正直いって見かけはヤ○ザっぽいん雰囲気。
しかし、院長先生の知り合いなら大丈夫だろうと思い込んでしまい、少しばかりの不安を抱きながらも開業準備となったのです。
開業準備には1ヶ月、勤務していた接骨院を退職して、いよいよ開業です。もちろん開業しても患者さんがあまり来院されないことも予想はしていました。
ところが・・・
予想に反して、3ヶ月・4ヶ月・・経ってもなかなか患者さんが思うようにはきてくれなかったのです。
そして、突然Mさんがこう言いだしてきました。
『500万円を○○名義(私の名義)で融資してくれないか?』
私は、一瞬「えっ!?」と心のなかで叫んでしまいましたが、話の内容ではMさんの会社が保証人になるということ。
とっても怖かったのですが、そのとき「責任は自分にあるんだ!」と私は思い込んでいたのです。言われるままに融資に申し込むことにしました。
話が違う!!
いま思えば本当におかしな話ですよね・・・。
まだ無知だったのでしょう。信じられませんが本当に「自分に責任があり自分名義でお金を借りてなんとかするんだ!」と考えていました。
でも、これってとても恐ろしいことだったんですね。
そう、結局Mさんの会社が保証人になるという話もまったくのウソでした!
Mさんの会社が保証人になるのではなく、「信用保証協会」とよばれる機関を保証人に立てるということに話をすり替えられてしまったのです!
これでは、万が一返済ができないときはすべての責任は私にかかってくることになってしまうのです。
しかし、もう乗りかかった船。「自分にも責任があるんだ!」と思い込んでしまい、このまま融資の手続きに入りました。
審査の結果、融資金500万円を借り入れすることができたのですが、いま考えとMさんが準備した運転資金が底をついていたんではないないのかなと思います。
ところが・・・
融資がおりるとMさんの態度が急変していきました。実は融資に関して話の続きがあります。
融資には見せ金として100万円の通帳残高が必要でした。そこでMさんは私にこう言ったのです。
『100万円出してくれ。融資がおりたら返すから』
私は、もう言われるままに100万円を通帳にいれました。
ここまでくると馬鹿ですよね・・・。当時、私にとってMさんは本当に恐怖の人だったのかもしれません・・・。
しかし、ここでもMさんはウソをつきました。
融資金の500万円が振り込まれた後、私が約束通り通帳に入れた100万円を返してくれと言ったところ、
『何言ってるんだ?接骨院の売り上げも上がらないし、このままじゃ100万円は返すわけにはいかないな!』
という返事・・・。
もう私はどうしていいのかが分からなくなりました・・・。
私個人の名義で借りている融資金が入っている通帳は、裏で経営しているMさんの手元にあります。それが一体どうなっているのかさえ分からない、教えてもらえない状況。
怖くて、不安でいっぱいになっても、その職場をやめることができない八方塞がりな状態。
それ以来、Mさんの態度はますますパワハラのようになってきて私の心は次第にズタズタになっていったのです・・・。
自殺の名所をインターネットで調べはじめる
心がすさんでいく原因はこのMさんの存在だけではありませんでした。実はスタッフとの人間関係もボロボロだったのです。
皆が私より年上で、経験が浅かった私は年上のスタッフに思うように動いてもらうことができませんでした。
年上のスタッフに手を余していたのか、言い合いになることも多かったのです。
そのような状況が続いていくうちに、少しづつ仕事への意欲と気力が失せていきました。
そして、そこに追い打ちをかけるように営業時間を延長され、休日も出勤するように言われたのです。
私の心はすさむばかりで、毎日が苦痛の連続。
楽しいと思えたことが思えなくなり、外出することも減って休日は部屋で寝ていることが多くなっていったのです。
ご飯も美味しくない、眠れない、いままで楽しんでいたことも楽しくなくなる・・・
唯一の救いは、当時付き合っていた彼女の存在でした。でも、そんな彼女にも私はできるだけ心配させないように振舞っているのが精一杯でした。
すさんでいく心に、終わりのないMさんのパワハラやスタッフとの人間関・・。私は、いつしか「死んだら楽になるだろうな・・・」と思うようになり始めました。
そして“自殺の名所”をインターネットで調べるようになったのです。
福岡の東尋坊、富士の樹海。
「全国にはいっぱい自殺の名所があるんだな~」
「ここからどうやって行けばいいのかな?」
「同じように自殺しようとして、その場でとめられる人がいるんだな・・」
と思いながら、パソコンのキーボードを打っていたのです。
これは典型的な「うつ病」の症状ですが、ここまでくると“自殺企図”といってうつ病がかなり進行している状態にまでなっていたのです。
富士の樹海へ、そして自殺未遂
死んだら楽になるのでは?と考える日々が数か月続いたのですが、ある日電話越しでMさんに罵声を浴びせられて・・
「もうだめだ・・・」
私の心の悲鳴が聞こえ、何かが崩れていきました・・。そして、彼女宛てに遺書を残し飛び出していったのです。
自らの手で携帯電話を破壊し、富士の樹海で自殺しようと車を走り出させました!
ここから半日もあれば富士の樹海までたどり着くだろうと思い、高速道路は使わずひたすら下道で樹海に向かって走り続けたのです。
そして、富士山に近い、山梨県の甲府についたときはすでに夜。まわりは真っ暗になっていました。
でも、人間って弱いものですね・・・。遺書を書いて、あれだけ死のう死のうと思っていたのに、いざとなるとダメなんです。怖くて足がとまってしまうんです。
そのまま何もせずに、甲府で2日間を過ごしました。
しかし、このままでは“ダメだ!”と思い、意を決して樹海に向かったのですが・・。なんと樹海に向かう途中、検問を張っていた警察にとめられてしまいました。
そう、県外ナンバーを張っていたのです。つまり、私に対しての「捜索願」が出されていたんですね。
ドンピシャで保護される・・・。
このときは本当に、「警察ってすごいな・・」と心の底から思ってしまいました。
その後、保護されてパトカーに乗せられて警察署に向かうことになりました。後にも先にもパトカーで連行されるという、ある意味貴重な体験だったかもしれませんね・・。
パトカーの中で私が警察の方に事情を説明した瞬間、涙があふれて号泣してしまいました・・。
もう恥じらいもなく、どうしようもなく・・・。
保護された警察署で
保護された警察署は『富士吉田警察署』でした。
そういえば、よくテレビの特集でみていました。富士の樹海で自殺しようとした人たちが保護されて、この警察署で保護されるシーンを。
まさか、私がその1人になるとは夢にも思いませんでしたが・・・。
警察署内で書類を書いた後、私は独房のような場所に保護されました。家族の迎えが来るまで待つことになったのです。
その独房のような場所は冷たく・寒い・・。まるで、いまの私と同じような空気・・・。
この場所で、家族が迎えに来るあいだ私は何を考えていたのでしょうか?まったく覚えていません。
その後、5時間か6時間経ったでしょうか・・・。正確な時間を覚えていませんが、父と妹、そして彼女が一緒になって迎えに来てくれました。
そう、彼女が私の遺書を見て家族に知らせ、捜索願いを出してくれたのです。
妹と彼女は、私を見て泣いてくれました。このとき私は、初めて“家族の大切さ”や“人の気持ちのあたたかさ”を知った瞬間だったのです!!
こうして富士吉田警察署の職員の方達にも大変お世話にっなったのですが、
帰り際の「もう、2度と来るなよ!」
という言葉が印象深く頭に残りつづけています。おそらく、その言葉を一生忘れることはないでしょう・・。
その後の、Mさんとは・・
その後、裏の経営者であるMさんとはお互い弁護士を通して和解案をだすことになりました。
時間はかかりましたが、融資金の500万円はMさんが責任を持つことになったのです。その変わり、私が出資した100万円は戻ってくることはありませんでした。
いま思えば、100万円で自分の命を買ったのと同じこと。それを考えれば安いものだと思います。
和解案が成立するまには半年ほどかかりました。その間、私は心身の静養のため3ヶ月くらいは何もしない日々が続いたのです。
家族や彼女とふれあい、体をゆっくり休ませることにより、次第に心と体の両方が回復していきました。
2ヶ月くらい何もしない日々が続くと体がウズウズしてきて、早く仕事に復帰したい意欲も出てきました。
その後、就職活動をして新たな職場もみつかり、無事に仕事へ復帰することができたのです。
「うつ病」や「自律神経失調症」についての勉強しはじめる
ここまでが、私がはじめて「うつ病」になった経験談。記憶に覚えていることをすべてお伝えしましたが、すべて実話です。
人間は本当に心に余裕がなくなり、すさんでくると“死”を考えるようになります。少なくとも私はそうでした。
これは体験した本人にしか理解できない気持ちかもしれませんね。
この経験がきっかけで、私はうつ病について興味を持つようになりました。
「うつ病って、どうしてこんなに苦しいんだろう?」
「うつ病って、どういう人がなりやすいのだろうか?」
インターネットでいろいろ調べているうちに、ある県で「うつ病」や「自律神経失調症」を専門としている治療院の存在を知りました。
私はその治療院の勉強会に参加して、うつ病について深く勉強しはじめたのです。
そして、うつ病が「自律神経」といわれ、人間が生きていくうえでとても重要な神経と深く関係していることを知ったのです。
こうして、私はうつ病や自律神経について深く勉強をしはじめたのですが、数年後に2度目のうつ病になってしまう出来事が起きてしまいました。
次回は、2回目のうつ病になってしまった体験談をお伝えしていきますね。
【次回はこちら↓↓】
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